建康帝 概要

建康帝は,諱は,輝成。後瑞穂国(綾朝瑞穂国)建文帝の第一皇子。

建康は在位時の元号。


生誕

後に建康帝となる輝成皇子は,
綾朝瑞穂国の元光元年(1504),都 津京(しんきょう)で誕生した。

元光帝が綾朝瑞穂国の皇帝として即位し,
瑞穂国再興を宣言したまさにその年である。

父は皇太子であり,母はその正妃である敦子であった。

敦子は,英成王の父 理成(さとなり)王の弟 成知(なりとし)王の曾孫である。

元光帝は,孫である輝成皇子に期待し随分と可愛がっていたという。

筋目も最も正しく,利発な皇子を
気に入っていたようであった。

ところが,輝成皇子を可愛がった元光帝は,元光8年(1511)に崩御した。

輝成皇子の父が即位し,建文の元号が立てられた。

これにより新帝は建文帝と称されることとなる。

輝成皇子も皇太子に立てられた。8歳であった。

太子は早くから初陣を望んだ。

自身を可愛がってくれた元光帝に対する強い憧れからである。

将兵と共にあり,戦陣に立ち,国を切り拓いた元光帝の姿を
皇太子は,追いかけようとしていた。

建文5年(1515),綾朝には,相次いで危難が訪れる。

まず初春には,山奈広康が川手地方へ侵入した。

太子は,出陣を望んだが建文帝は許可しなかった。

そして冬には,安達政権が10万の軍で侵攻してきた。

皇太子は,

「正に,国家危急存亡の秋です。

私に救援にいかせてください。」

とまたも出陣を望んだが,建文帝は,これも却下した。

この時は,三傑の一人 里見泰之が,安達勢を打ち破って
綾朝は危難を切り抜けた。

明けて建文6年(1516),

湯朝の山奈広康がまたも綾朝領であった川手地方へ侵攻してきた。

広康は前年の侵攻の時には,嶺外地方の天堂氏が,
湯朝の都 湯来を狙って兵を動かしたため,
すぐに川手地方から引き上げ,天堂氏攻撃へととって返した。

しかし,今度は,その天堂氏を大破して,後背地の安全を確保した上で,
万全の態勢を以って川手地方へ進出してきたのである。

山奈広康は,陽動作戦によって川手地方の要地 真砂湊の綾朝軍を壊滅させると,
さらに北上して,川手を狙った。

皇太子は,

「今度こそ,私に出陣の許可をください。」

と志願した。ついに建文帝は折れ,太子に出陣を許した。

初陣の皇太子に,建文帝は,三傑の一人である早智秋と智将 上村晴世を補佐につけた。

綾朝側も万全の態勢である。

皇太子の出陣によって,軍の士気は高まった。

山奈広康は,皇太子が早智秋・上村晴世とともに出陣したことを聞くと,
川手の攻略を諦めて真砂湊の防備を固めて引き上げる。

太子にとっては,拍子抜けするような結果となってしまった。


救援

建文7年(1517),湯朝で左大臣 市井真存(いちい・さねなが)が薨去した。

この湯朝の要人の死を契機に,綾朝では,湯朝攻撃論が出てきた。

その急先鋒が,建文帝の叔父にあたる十和忠正であり,
忠正は,

「志賀を攻略すれば,志賀以北の湯朝領は孤立して自然と我が国になびくでありましょう。」

と建文帝に進言して,自ら志賀攻略を買って出た。

早智秋・智伯父子や上村晴世らは,

「先年奪われた真砂湊を攻略するのが先決。」

と言い,皇太子も同じ思いであったが,

建文帝は,忠正の熱気に押されて,忠正に兵を与えて志賀攻略へ向かわせた。

綾朝軍が北へ出ると,その隙を衝いて,北では重光氏が動き,
綾朝に属するようになっていた南家を攻撃した。

亜北では,かつて元光帝がまだ十和宮だった時代に,
早本家と同盟を結んで,後背地を安定させ,名和平原へ進出したのであるが,
このころ早本家は,もはや綾朝の一諸侯となっており,
湯朝との対決の必要性から,川手地方へ転封させられていた。

変わって,綾朝の後背地の防波堤となっていたのは,
南家であった。

南家は,元光帝の皇后である明子の実家であり,
現当主 春和は,明子の甥に当たる。

皇太子は,

「お祖母様のご実家を,お救いしたく思います。」

と南家への救援軍を率いることを望んだ。

建文帝は,今度も太子に早智秋と上村晴世を付けて,
出陣させた。

重光勢は,南家の本拠 山内を攻囲していた。率いるのは猛将 増山康虎であったが,
山内を救援に来た綾朝軍を率いるのが14歳の皇太子であるのを知って侮った。

山内の兵数は500程度であったから,
康虎は,1万7千の自軍の内,5千を三沢への備えとすると,
残りの1万2千を率いて,救援にきた綾朝軍8千を押しつぶしてしまおうと向かってきた。

兵力で優位にある重光勢に対し,綾朝軍は,
皇太子が必死に督戦に務めるも少しずつ後退を始める。

勢いに乗り始めた重光勢は綾朝軍に突進したが,上村晴世が伏勢となっていた。

上村隊は重光勢の側面に突入,重光勢は混乱し,潰走することになった。

増山康虎は血路を開いてかろうじて落ち延びるのが精一杯だった。

南家の危機はひとまず去った。皇太子は勝利したのである。

しかし,湯朝に攻撃を仕掛けた十和忠正は,山奈広康の堅守を崩すことができず,
得るところなく引き上げていた。

明けて建文8年(1518),早智秋による調略が奏効し外城氏が湯朝に背く。

日生国の入島神聖は緒土国を攻撃したが,
今度は山奈広康は,外城氏や天堂氏に牽制されて,
綾朝への攻撃を仕掛けることが出来ない。

そこで綾朝は,日生国に攻められている緒土国の救援に動いた。

とは言え,緒土国を直接救援するのではなく,
日生国本土を窺う形を採った。

里見泰之は,日生国との国境に迫り,
日生国の入島神聖は,綾朝軍迎撃のため緒土国から撤兵した。

日生軍の本隊が日生本土へ帰還したため,
里見泰之も綾朝・日生国境から軍を退いた。

綾朝の拡大は一進一退であった。

この年,皇太子は,正室を迎えている。

早智秋の娘 吉子である。


南北の脅威

綾朝と湯朝は,連年,軍を仕立てて攻撃し合った。

建文9年(1519)には,湯朝では山奈広康が主力を率いて天堂氏征伐に乗り出したが,
これを綾朝側では,真砂湊を湯朝から奪還する好機と見た。

前年の雪辱を果たそうと十和忠正が真砂湊に攻撃を仕掛けたのである。

しかし,忠正は四千もの死者を出しながら,
真砂湊を奪還できず,上村晴世と交替させられる。

上村晴世は,昼夜交替で真砂湊に攻撃を仕掛け,
真砂湊の守備側を眠らせない策に打って出た。

真砂湊の守備兵は,日に日に疲労を募らせ,
ついに上村晴世は真砂湊の奪還を果たす。

とは言え,さらに湯朝側の要衝 久香崎を抜こうとした上村晴世の前に,
天堂征伐を切り上げて戻ってきた山奈広康が立ちはだかる。

綾朝軍は,真砂湊攻撃での疲労もあって,
有効な攻撃を久香崎に仕掛けることができず,
撤兵することになった。

今度は,広康が綾朝を攻撃する番となり,早くも翌建文10年(1520)には,
広康率いる湯朝軍は,綾朝の友谷へ進出してきた。

この時は,綾朝三傑の一人と言われる里見泰之が,
広康の攻撃を凌いで事なきを得た。

ところが,さらに翌年の建文11年(1521)の戦いでは,
綾朝は,後退を余儀なくされる。

久香崎に攻撃を仕掛けた綾朝は,山奈広康の持久の構えを崩せず,
引き上げることになったが,広康は,反攻を仕掛けてきたのであった。

湯朝軍が真砂湊を攻撃すると,
川手から,泉義晴率いる兵2万が真砂を救援する。

この時,早智秋の嫡男で川手の副将であった 早智伯(そう・ともたか)は,

「これは,広康の陽動にちがい有りません。

広康の真の狙いは長岡,友谷かと思われます。

真砂の救援に全力を傾注すれば,友谷への救援がおろそかになりましょう。」

との意見であったが,泉義晴は,

「友谷は充分に堅牢で,数万で攻められても三か月は持ちこたえられよう。

これに対し真砂の守りは弱い。

真砂が落ちれば,川手が危なくなり,川手が抜かれれば長岡や友谷は孤立する。」

として,真砂の救援に全力を注いだ。

結果は,智伯の予測通りとなる。

広康率いる湯朝は,長岡,ついで友谷を攻撃する。

川手からは救援が出せず,より遠い泉から,
里見泰之が長岡・友谷を救援する羽目になった。

泰之は,

「目先しか見えぬ小僧よ。真砂に攻めてきているのは湯朝の主力ではない。

数千も後詰を出せば良い。

長岡に後詰を出せぬ方が,大事になる。

泉からでは,長岡は遠い。それまで長岡の士気が持つか危うい。

長岡・友谷は元々,広康が治めていたところ,
士気が落ちれば,広康を迎え入れる輩が湧いてでる。」

と泉義晴の決定に歯噛みしたという。

果たして湯朝軍は,長岡に殺到,長岡は川手から救援が来ないために,士気が落ち,
広康の調略に乗って,湯朝に降伏する者が相次ぎ,ついに長岡は開城した。

友谷でも,広康の調略が効果を上げ,綾朝から広康へ寝返るものが出る。

友谷も結局,広康に落されてしまった。

泰之は,後退した国境線の防備を固めて引き上げた。

対湯朝の南方戦線はこのような情勢であったが,
皇太子は,建文7年(1517)の南氏救援以来,亜北諸豪を睨む,北方戦線を担っていた。

太子は,
「北の境を安定させておけば,我が国は南方の湯朝に集中できる。」

と認識しており,皇太后の実家である船岡南氏との友好関係を軸に
重光氏を始めとする亜北の敵対勢力による綾朝への侵入を連年,防いできた。


光井の戦い

重光氏は,亜北の統一を目指して,建文十年代の初頭には,
北方の葦原氏や督(かみ)氏を降して勢力を拡大,亜北の最大勢力にのし上がっていた。

船岡南氏も,度々,重光氏の侵攻を受け,その度に綾朝へ救援を求めた。

重光氏当主 義康も,南氏を攻撃すれば,綾朝の救援がやってくることは分かっている。

当然,綾朝が手薄になっている時を狙ってくる。

建文9年(1519)から同11年(1521)まで,
毎年の様に綾朝が湯朝との抗争に明け暮れると,
これは,重光氏にとっても勢力拡大の好機となった。

重光氏の勢力圏は,亜北の西半分と亜北の中部に及んでいたが,
それはちょうど三日月状の版図であり,
その三日月の内側に南家の勢力や綾朝領の十和があった。

重光氏にしてみれば目障り極まりない。

重光義康は,建文9年(1519)には,
1万5千の兵を揃えて南氏に属していた村山氏を攻撃した。

綾朝の救援が南領に入る前に,重光軍は,圧倒的兵力差を背景に村山氏を降し,
さらに,またも南氏の本拠 山内まで進出してきた。

皇太子の軍は,早智秋と山内に急行する。

綾朝・南連合軍と重光軍は,山内近郊の光井で対峙,
連合側は,堅守の姿勢をとると,結局,重光義康は,撤兵していった。

しかし,重光義康は,これで南領への侵攻を諦めたわけではなかった。

情勢は重光氏に有利になり始めていた。

重光氏が南氏と比べて優位に立ち,綾朝が湯朝との抗争に傾注すると,
亜北の諸豪で重光氏に靡くものは次第に増えていく。

建文11年(1521),湯朝の山奈広康へ対処するため,綾朝軍主力が南へ動くと,
重光義康は,諸豪を従えて2万を超えるまでに膨れ上がった軍を率いて,
南氏を攻撃した。

太子は,今回も早智秋とともに南氏救援に出た。

綾朝軍は再び光井で重光軍とぶつかる。

太子は,

「数は重光方が多いが,寄せ集めであり,充分に統制が取れているようには見えない。」

と言えば,

智秋は,

「仰せのとおりです。重光方は近年,力を増して勢いがあるので油断は禁物ですが,
諸豪の寄せ集めには違いありません。

一方で,我が国の軍は,太子のご命令一下に戦う軍であり,
また,南家の軍とも連年,連携をとって戦ってきただけにまとまりがあります。」

と応じた。

結果を見れば,太子の見立て通りであった。

綾朝軍は,指揮系統が一元化されており,また南家の軍との連携もよく取れていたが,
重光軍は,にわかに重光氏の傘下に入った諸豪もおり,指揮系統は整っていなかった。

綾朝・南連合軍が数で劣るにも関わらず,重光方に対して終始,
優位を保って押し切った。

とはいえ,重光方は決定的な敗北を喫したわけではなく,
引き続き綾朝にとっての脅威であった。

湯朝の山奈広康,そして,亜北の重光義康の「両康(りょうこう)」は,
長く,綾朝の悩みの種となる。

第二次光井合戦

建文帝は,元光帝と異なり軍事的才能に恵まれず,
元光帝が十和宮だった時代から,軍事的成功を収めたことはなかった。

建文帝は,むしろ検地や戸口調査,法整備など内治で力を発揮する人物であり,
綾朝は着々と支配基盤を整えていた。

軍事はといえば,もっぱら,元光帝時代からの宿将や一族に任せていたが,
建文帝の皇子らも,いずれも軍事的才能に恵まれ,
長じると外征を任されるようになる。

皇太子がそうであり,第二皇子の春成皇子もそうであった。

建文15年(1525),湯朝で左大臣 山奈広康に対する反乱が発生すると,
綾朝は,先年奪われた長岡・友谷奪還を狙う。

春成皇子は12歳になっていたが,長岡・友谷奪還戦で初陣を迎える。

建文帝は春成皇子に里見泰之をつけ,出陣させた。

春成皇子の軍は見事に長岡・友谷を奪還してみせる。

さて,北方の重光氏は一層勢力を拡大させていた。

建文13年(1523)には,亜北西岸の司馬氏を従属させ,
翌建文14年(1524)には,春田氏を見坂で破ってその所領西半を奪った。

建文15年(1525)に入ると,またも重光氏は南氏の所領へ侵入する。

今度も皇太子は,早智秋とともに,南氏の救援に駆けつけた。

太子が,
「固く守り持久の構えを採るのが良いと思うがどうか。」

と問われると早智秋が,

「それが良いと存じます。重光軍は数は多いですが,
やはりまとまりはありません。こちら側を押し切るだけの力はなく,
数の多さが仇となって,補給にも士気の維持にも苦しみましょう。」

と応じた。

綾朝と南氏の連合軍は,重光軍の山内への南下を遮る形で,
光井に布陣し,堅守の姿勢を貫いた。

対陣一か月,重光義康は,軍を引いた。

しかし以後も南で綾朝が湯朝と争えば,必ず重光氏は南下してくるのであった。


調略

長岡・友谷を奪還した綾朝は,建文17年(1527)には,
またも久香崎へ進出して湯朝本領への侵攻を企図した。

しかし,綾朝軍は,長期の大雨のため増水による被害に見舞われ,
撤退を余儀なくされる。

この時も重光氏は,綾朝領や南領を窺った。

太子より,

「重光方の勢力を殺ぐ方策はないものか。」

と相談を受けた早智秋は,

「重光方を分断しましょう。」

と言って,重光方に調略を始めた。

翌建文18年(1528)秋になると,
日生国が綾朝の盟邦となっていた緒土国を攻撃し,これに合わせて,
湯朝の山奈広康が長岡・友谷の再奪取を目指して北上してきた。

綾朝は里見泰之を長岡の救援に差し向けたが,
すでに広康は厳重に長岡を包囲しており,結局長岡は開城を選択する。

危機的状況かと思われたが,冬に入り病を得た広康は帰国,
隙を衝いて里見泰之がなんとか長岡を取り戻した。

もちろん,長岡で綾朝軍が湯朝と対峙している間に,
重光義康も動き,2万5千を超える重光軍が南家本拠 山内目指して侵入する。

再び,綾朝・南連合軍は,光井で重光軍と対峙したが,
ここで,早智秋の調略が功を奏し始める。

司馬氏が重光方から綾朝方へ転じたのである。

綾朝・南連合軍は,司馬勢と重光軍を挾撃する形となった。

司馬勢の寝返りによって,混乱した重光軍は惨敗を喫した。

総大将の重光義康は流れ弾に当って重傷を負った。

傷の回復は思わしくなく,結局,2年後の建文20年(1530)に亡くなった。

重光氏は義康の嫡男である義廉(よしかど)が継いだが,
諸豪の離反への対処に追われ,しばらく南領への侵入は止むことになる。

綾朝の頭痛の種であった「両康」のうち,
一方の「康」である重光義康の脅威は去ったのであった。


日生遠征

建文19年(1529),日生国の入島神聖が急に徂落し,
混乱が生じた。

綾朝では,春成皇子が,日生国遠征を建文帝に進言した。

太子は,

「湯朝を併せない限り,我が国は国力の点で日生国に及びません。

先に湯朝を併呑するべきです。

そのためには,日生国は緒土国に任せ,
綾朝は湯朝に当たるのが良いかと思います。

この態勢を守るため,昨年は緒土国を救うため日生遠征を行っただけのこと。

湯朝を併せるまでは,本来は,日生国に対しては守りに徹するべきです。」

と反対した。

春成皇子はこれに反駁した。

「日生国は,元首を亡くして勢いを失いました。
開明派と守旧派で争う形勢も見えます。

今は正に日生国を取る好機。

古より天の与えたものを取らなければ,その咎めを受けると申します。

日生国を併呑してしまえば,湯朝などものの数ではなくなり,
簡単に討つことが出来るようになりましょう。」

早智秋・智伯父子や,上村晴世ら謀臣らは太子同様遠征に反対であったが,
建文帝は長年湯朝との戦いに成果が出ていないこともあって,
打開策としての日生国遠征に飛びついた。

それでも,早智伯は春成皇子の遠征に従って補佐に当たった。

日生国の新総攬 浅宮政臣は,自ら国軍を率いて山奈口へ出張り,
堅守の構えをとった。

綾朝軍は,得るところなく,早智伯を殿軍にして引き上げた。

浅宮政臣が慎重な姿勢を貫いて追撃を出さなかったこともあり,
早智伯は軍を損なうことなく撤兵を完了した。


川手失陥

さて,重光義康の逝去した年,南では湯朝の王 嘉楽王も身罷っていた。

とは言え,山奈広康は健在であり,湯朝の脅威が減じることはなかった。

広康は,綾朝の建文22年・湯朝の享福3年(1532)から,
湯朝中央に対して独立的に振る舞う嶺外の諸侯の征伐を開始,
同年,外城氏を滅ぼしたのを皮切りに,翌々年には,天堂氏をも降してしまった。

この間,綾朝も指を加えて湯朝の勢力拡大を見ていたわけではない。

建文20年(1530)には嘉楽王の逝去に乗じて長岡から湯朝に侵入を試みたし,
同22年(1532)には,広康の外城氏遠征の隙を衝いて,
やはり長岡方面から湯朝を窺った。

しかし,いずれも功を奏すことはなかった。

そして嶺外諸侯を降した広康はもはや後背地に敵を抱えなくなり,
いよいよ綾朝征伐に乗り出してきたのである。

建文25年(1535),山奈広康は8万の湯朝軍を二手に分けて,綾朝領へ侵攻する。

広康の本隊は,川手方面へ,山戸元良率いる別働隊は,友谷方面へ出てきた。

綾朝では建文帝が,早明久・市村時文に兵1万を与え,
川手の泉義晴の救援に向かわせ,
友谷へは,安代栄家・瀬野幸就にこちらも兵1万を与えて救援に向かわせた。

友谷は,元々,里見泰之が預かっていたが,泰之は老齢から体調が思わしくなく,
都での静養を余儀なくされており,代わりに泰之の嫡男 泰友が守っていた。

この時,皇太子は,綾朝東部の要衝である有賀に入って早智秋の補佐を得て,
西部の要衝福成には,春成皇子が入って早智伯の補佐を得て湯朝の北上に備えた。

太子は,

「今までの湯朝軍の北上とは違う。もはや広康には湯朝国内に敵はいない。

背後に敵を抱えることもなく広康は,今や8万もの軍を動かしている。

また,広康は高齢であるが,
それ故にこの戦を自らの最後の出師にして,
事業の仕上げにしようと考えているかのような必勝の構えがある。

これは,我が国にとって,
かつての安達勢の侵入にも数倍する危機になるのではないか。」

と懸念したが,その懸念は次第に現実のものとなっていく。

広康は,丸山という要衝に要塞を築いて街道を封鎖し真砂と川手の連絡を遮断,
また紗摩川でも湯朝水軍が綾朝水軍を締め出した。

泉義晴は,広康の築いた丸山城を攻略しようと十和忠正に兵を与えて差し向けたが,
結果は散々なものであり,真砂は孤立を余儀なくされた。

真砂の守備隊は夜陰に紛れて真砂を退去するが,湯朝側に行動は読まれており,
川手への撤退の途上,夜襲を受けて,甚大な被害を出すことになっている。

湯朝軍の勢いの前に川手地方の諸豪には,
綾朝から湯朝に鞍替えするものも多く出始めた。

湯朝軍は,次々に川手地方の要衝を攻略し,川手はついに孤立することになる。

川手は十重二十重に包囲された。

この時,広康率いる湯朝軍本隊は8万近くに膨れ上がっていた。

川手を救援しようとやってきた綾朝軍は,
自軍に数倍する湯朝軍を前に為す術がない。

ここに至って川手の将 泉義晴は,広康による開城勧告を受け入れて,
城兵の助命と引き換えに自害する。

湯朝の旗が川手に翻った。


宇山の戦い

川手の陥落は,綾朝陣営を大いに動揺させた。

長岡・友谷では,小領主の湯朝への鞍替えや兵の離脱が相次ぎ,
ついに綾朝は長岡・友谷を放棄する。

川手を落とした山奈広康は,自らは長津方面へ北上しながら,
葛原央直・小島長友に別働隊を与え,東岸地方の攻略へ向かわせる。

葛原央直・小島長友は,川手地方と東岸地方の境目にある要衝 宇山へ攻めかかった。

有賀にいた皇太子は,

「宇山を取られると,東岸諸城が孤立する。

そうなれば東岸諸城はことごとく開城し,
我が国はもはや畿内を保つのみとなる。」

と懸念し,上村晴世らとともに,自ら宇山の救援へと出陣した。

皇太子は,上村晴世の進言を容れて夜襲を仕掛けた。

白い布を腕に巻き付けて暗い中での敵味方の識別に使い,
同士討ちを防いだという。

逆に湯朝軍は同士討ちをはじめるなど混乱し,
ついには潰走してしまう。

ひとまず宇山は守られた。

皇太子はそのまま宇山に入ったが,
湯朝は今度は,名将 杉山頼友を宇山攻めに投入してくる。

さて,山奈広康の本隊は,長津を重包囲していた。

都で静養していた,里見泰之は,病を押して長津の救援に向かう。

里見泰之は,良く戦ったがしかし湯朝の長津包囲陣を崩すまでには至らない。

長津の陥落は,時間の問題と言えた。

綾朝は存亡の危機に瀕したが,
山奈広康には時間が残されていなかった。

広康は,陣中で病を得,程なく薨去した。享年72。

湯朝軍は攻撃を中断し,川手まで引き上げる。

綾朝の危機はひとまず去ったのであった。

とはいえ,綾朝も重鎮を失った。

病を押して出陣した三傑の一人 里見泰之が戦後,病を悪化させて,
帰らぬ人となってしまったのである。68歳であった。


泉の戦い

山奈広康が世を去った後も,広康の子 頼康が湯朝をまとめて,
綾朝の脅威となっていた。

また北の重光氏も綾朝が湯朝に圧迫されている間に態勢を立て直し,
またも勢力を拡大し始める。

重光義康の後を継いでいた義廉(よしかど)は,
建文25年(1536)に再度,司馬氏を降し,同年中には北方遠征を行って,
能瀬氏をも降すに至った。

さらに建文27年(1537)には,久方ぶりに南氏の勢力圏へ食指を伸ばして来たので,
皇太子は,早智秋・上村晴世・安代栄家・川本康彦らとともに救援に赴いた。

ほぼ,一か月に渡って山内近郊で対峙するに至ったが,
両者とも決定打に欠け,和睦となる。

建文28年(1538)に入ると,山奈広康の後を継いだ頼康が,
湯朝軍を率いて泉方面へ進出してきた。

この動きに重光氏も呼応し南領へ侵入したため,
綾朝は,南北より挾撃を受けることとなる。

今回も,皇太子は,早智秋・上村晴世・
安代栄家・川本康彦らと南氏の救援に向かう。

南氏では,当主となっていた一和(いちかず)は,
山内を固守しつつ,春田氏と結ぶとともに能瀬氏に調略をかけて,
重光氏から離反させ,危ういところで重光氏の勢いを止めた。

重光氏は能瀬氏討伐へと反転する。

安代栄家や川本康彦は,

「この機に乗じて,重光氏を討ち,後顧の憂いを断つべきである。」

と言ったが,

早智秋・上村晴世は,

「湯朝が侵入して来ている最中でもあり,
重光氏を追いかけるのは得策ではない。

重光氏が能瀬討伐に向かっている今の間に,
我らは取って返して湯朝の攻撃を受けている南方へ救援に向かうべきであろう。」

とした。

このころ,湯朝軍は,篠井を陥落させることに成功すると,さらに北上し,
綾朝第二の街である 泉を攻撃した。

頼康は,綾朝皇太子の軍が南方戦線にあって名和平原が手薄な内に,
少しでも勢力を拡大しようと企図したのである。

そのような情勢から太子は,

「どちらも一理あるところである。

しかし,この度は,国を挙げて湯朝に当たろうと思う。」

と述べて,湯朝の攻撃を受ける泉へ救援に向かった。

皇太子が泉に接近中であることを知ると,
山奈頼康は,泉攻略の機は去ったと見て引き上げていった。


外城氏救援

綾朝は,突如として山奈頼康の脅威から解放された。

建文30年・湯朝の享福11年(1540),
山奈頼康が病により31歳の若さで急逝したのである。

頼康の子は幼かったために影響力を発揮することはできず,
湯朝では,頼康の後継の座を巡って権力闘争が始まる。

湯朝には,譜代開明派・譜代保守派・山奈派の三派があり,
さらに三派に属さない嶺外の諸侯らがいた。

これまで政権を担ってきた山奈氏二代は,
自派と譜代開明派の協力を基盤としてきた。

そして頼康逝去の後は,新たに小島長友という人物が権力を握る。

長友は,山奈氏による政権に協力して,譜代開明派の中で頭角を現し,
今や譜代開明派の最重鎮になっていた。

譜代開明派の小島長友が権力を握ったことで,当初は,
引き続き譜代開明派と山奈派による政権が維持されるかと思われたが,
長友は,幼い当主に率いられる山奈家を軽視し始め,政権の枢要部から
山奈派の人物を遠ざけるようになる。

長友の狙いは,開明・保守両派の譜代を統一して政権を担うことであった。

長友の譜代重視はしかし,山奈派や嶺外の諸侯から反感を買う。

綾朝側はこれを見逃さない。

対湯朝戦線は春成皇子が担っていたが,これを補佐していた智将 早智伯は,

「これまで以上に調略が功を奏すでありましょう。

にわかに湯朝に属した者などは,こちらに靡く者も出るでありましょう。」

と,湯朝への調略を進言した。

春成皇子は,智伯の進言を採用する。

成果は早くも建文32年(1542)には現れた。

湯朝嶺外の諸侯である外城氏が綾朝へ鞍替えしたのである。

外城氏はかつて湯朝朝廷に反旗を翻して没落し小諸侯に転落していたが,
元は天堂氏と並ぶ大勢力であり,
嶺外東部に未だに大きな影響力を持つ勢力であった。

外城氏は綾朝の援軍を得て嶺外東部の要衝 三津城を攻撃する。

湯朝の小島長友は,三津城を救援,外城氏を退けた。

翌建文33年(1543)になると長友は,
4万もの兵を率いて外城征伐に出陣した。

皇太子は,津京にあったが,外城氏救援の声が上がると,

「湯朝軍は中々兵数が多いように思います。

長友は,三津城での戦勝の勢いに乗って,
外城氏を平らげるだけでなく,
一気に我が国まで呑み込むつもりではありますまいか。

その腹づもりならば,あるいは長友は外城を攻めると見せかけて,
中泊方面へ転進してくるのではないでしょうか。」

と懸念を示した。

太子の側近であった上村晴生(うえむら・はるみ)は,
それに合わせて,

「その昔,山奈広康は嶺外東岸を平らげた後,
驚くほどの速さで川手地方へ出てきた事があります。

同じような手を使えば,外城氏を攻撃すると見せかけて,
こちらを外城救援に注力させその隙に,
中泊へ殺到することは出来ましょう。

こちらも中泊方面の兵を東岸地方へ動かすと見せかけて,
そのまま中泊に留めておくのが良いでしょう。」

と述べた。

結局,この献策が通り,外城救援は,
津京・東岸地方の兵で行われることになり,
その救援軍は太子が率いた。


中泊の戦い

外城救援に赴く道中,上村晴生は,

「私は十中八九,小島長友は中泊へ出てくると考えております。

中泊の早将軍(早智伯)などは,
長友を存分に叩いて一気に湯朝を平らげることを考えておいででしょう。」

と述べた。

太子はこれには少し驚いて

「湯朝とは長年争い,常に一進一退であった。一戦で決まるものであろうか。」

と疑問を投げかける。

晴生は,

「これまでとは違います。

長友には山奈父子のような徳も才覚もありません。

それ故,湯朝をまとめることは難しく,
まして戦に敗れれば一気に長友から人心が離反するでありましょう。

湯朝は割れるばかりとなります。

この一戦を契機として一気に湯朝を平らげることは可能です。」

と言った。

小島長友はやはり,外城征伐へ向かう途中で本隊を転進させ,
中泊へ向かった。

しかし,中泊を守っていた春成皇子は側近の早智伯の進言により,
中泊の郊外に伏兵を配して長友を待ち受ける。

春成皇子の軍は大勝した。

小島長友は,乱戦のなかで斬り死にする。

湯朝軍は壊滅と言ってよかった。