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宇山の戦い

川手の陥落は,綾朝陣営を大いに動揺させた。

長岡・友谷では,小領主の湯朝への鞍替えや兵の離脱が相次ぎ,
ついに綾朝は長岡・友谷を放棄する。

川手を落とした山奈広康は,自らは長津方面へ北上しながら,
葛原央直・小島長友に別働隊を与え,東岸地方の攻略へ向かわせる。

葛原央直・小島長友は,川手地方と東岸地方の境目にある要衝 宇山へ攻めかかった。

有賀にいた皇太子は,

「宇山を取られると,東岸諸城が孤立する。

そうなれば東岸諸城はことごとく開城し,
我が国はもはや畿内を保つのみとなる。」

と懸念し,上村晴世らとともに,自ら宇山の救援へと出陣した。

皇太子は,上村晴世の進言を容れて夜襲を仕掛けた。

白い布を腕に巻き付けて暗い中での敵味方の識別に使い,
同士討ちを防いだという。

逆に湯朝軍は同士討ちをはじめるなど混乱し,
ついには潰走してしまう。

ひとまず宇山は守られた。

皇太子はそのまま宇山に入ったが,
湯朝は今度は,名将 杉山頼友を宇山攻めに投入してくる。

さて,山奈広康の本隊は,長津を重包囲していた。

都で静養していた,里見泰之は,病を押して長津の救援に向かう。

里見泰之は,良く戦ったがしかし湯朝の長津包囲陣を崩すまでには至らない。

長津の陥落は,時間の問題と言えた。

綾朝は存亡の危機に瀕したが,
山奈広康には時間が残されていなかった。

広康は,陣中で病を得,程なく薨去した。享年72。

湯朝軍は攻撃を中断し,川手まで引き上げる。

綾朝の危機はひとまず去ったのであった。

とはいえ,綾朝も重鎮を失った。

病を押して出陣した三傑の一人 里見泰之が戦後,病を悪化させて,
帰らぬ人となってしまったのである。68歳であった。


川手失陥

さて,重光義康の逝去した年,南では湯朝の王 嘉楽王も身罷っていた。

とは言え,山奈広康は健在であり,湯朝の脅威が減じることはなかった。

広康は,綾朝の建文22年・湯朝の享福3年(1532)から,
湯朝中央に対して独立的に振る舞う嶺外の諸侯の征伐を開始,
同年,外城氏を滅ぼしたのを皮切りに,翌々年には,天堂氏をも降してしまった。

この間,綾朝も指を加えて湯朝の勢力拡大を見ていたわけではない。

建文20年(1530)には嘉楽王の逝去に乗じて長岡から湯朝に侵入を試みたし,
同22年(1532)には,広康の外城氏遠征の隙を衝いて,
やはり長岡方面から湯朝を窺った。

しかし,いずれも功を奏すことはなかった。

そして嶺外諸侯を降した広康はもはや後背地に敵を抱えなくなり,
いよいよ綾朝征伐に乗り出してきたのである。

建文25年(1535),山奈広康は8万の湯朝軍を二手に分けて,綾朝領へ侵攻する。

広康の本隊は,川手方面へ,山戸元良率いる別働隊は,友谷方面へ出てきた。

綾朝では建文帝が,早明久・市村時文に兵1万を与え,
川手の泉義晴の救援に向かわせ,
友谷へは,安代栄家・瀬野幸就にこちらも兵1万を与えて救援に向かわせた。

友谷は,元々,里見泰之が預かっていたが,泰之は老齢から体調が思わしくなく,
都での静養を余儀なくされており,代わりに泰之の嫡男 泰友が守っていた。

この時,皇太子は,綾朝東部の要衝である有賀に入って早智秋の補佐を得て,
西部の要衝福成には,春成皇子が入って早智伯の補佐を得て湯朝の北上に備えた。

太子は,

「今までの湯朝軍の北上とは違う。もはや広康には湯朝国内に敵はいない。

背後に敵を抱えることもなく広康は,今や8万もの軍を動かしている。

また,広康は高齢であるが,
それ故にこの戦を自らの最後の出師にして,
事業の仕上げにしようと考えているかのような必勝の構えがある。

これは,我が国にとって,
かつての安達勢の侵入にも数倍する危機になるのではないか。」

と懸念したが,その懸念は次第に現実のものとなっていく。

広康は,丸山という要衝に要塞を築いて街道を封鎖し真砂と川手の連絡を遮断,
また紗摩川でも湯朝水軍が綾朝水軍を締め出した。

泉義晴は,広康の築いた丸山城を攻略しようと十和忠正に兵を与えて差し向けたが,
結果は散々なものであり,真砂は孤立を余儀なくされた。

真砂の守備隊は夜陰に紛れて真砂を退去するが,湯朝側に行動は読まれており,
川手への撤退の途上,夜襲を受けて,甚大な被害を出すことになっている。

湯朝軍の勢いの前に川手地方の諸豪には,
綾朝から湯朝に鞍替えするものも多く出始めた。

湯朝軍は,次々に川手地方の要衝を攻略し,川手はついに孤立することになる。

川手は十重二十重に包囲された。

この時,広康率いる湯朝軍本隊は8万近くに膨れ上がっていた。

川手を救援しようとやってきた綾朝軍は,
自軍に数倍する湯朝軍を前に為す術がない。

ここに至って川手の将 泉義晴は,広康による開城勧告を受け入れて,
城兵の助命と引き換えに自害する。

湯朝の旗が川手に翻った。


日生遠征

建文19年(1529),日生国の入島神聖が急に徂落し,
混乱が生じた。

綾朝では,春成皇子が,日生国遠征を建文帝に進言した。

太子は,

「湯朝を併せない限り,我が国は国力の点で日生国に及びません。

先に湯朝を併呑するべきです。

そのためには,日生国は緒土国に任せ,
綾朝は湯朝に当たるのが良いかと思います。

この態勢を守るため,昨年は緒土国を救うため日生遠征を行っただけのこと。

湯朝を併せるまでは,本来は,日生国に対しては守りに徹するべきです。」

と反対した。

春成皇子はこれに反駁した。

「日生国は,元首を亡くして勢いを失いました。
開明派と守旧派で争う形勢も見えます。

今は正に日生国を取る好機。

古より天の与えたものを取らなければ,その咎めを受けると申します。

日生国を併呑してしまえば,湯朝などものの数ではなくなり,
簡単に討つことが出来るようになりましょう。」

早智秋・智伯父子や,上村晴世ら謀臣らは太子同様遠征に反対であったが,
建文帝は長年湯朝との戦いに成果が出ていないこともあって,
打開策としての日生国遠征に飛びついた。

それでも,早智伯は春成皇子の遠征に従って補佐に当たった。

日生国の新総攬 浅宮政臣は,自ら国軍を率いて山奈口へ出張り,
堅守の構えをとった。

綾朝軍は,得るところなく,早智伯を殿軍にして引き上げた。

浅宮政臣が慎重な姿勢を貫いて追撃を出さなかったこともあり,
早智伯は軍を損なうことなく撤兵を完了した。