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近代世界の父

百三十二世21年(1610)の末ころより,美城上聖は,食が細り,
眠ることが多くなり始める。

明けて百三十二世22年(1611)には,
一層,食が細り,眠って過ごす時間もさらに長くなっていった。

明らかに老衰が進行していた。

上聖は,

「自分は,徳が少なく,何も成さず,未だ『百姓昭明,協和万邦』には程遠い。

私が亡くなったら,葬儀は簡素にして,

皆,平生の通りに働き,備えを怠ってはならない。」

と遺言した。

盛大な葬儀も喪に服することすらもいらないと言ったのである。

百三十二世22年(1611),3月始め,美城において上聖はついに徂落した。

88歳であった。

日生国中,老若男女が上聖の徂落を大いに悼んだ。

上聖の徂落が伝わると,
上聖の時代に救援を受けた南洋の諸国やリュイトなど環日東洋諸国,
また,友好国であったレーヴェスマルクなど海外からも哀悼の意が表された。

日生国は今や,現代まで続く全盛期に入っていた。

上聖の長寿と緩やかな代替わり,綾朝での大地震によって,
綾朝は,日生国攻撃の企図を捨てざるをえない状況となった。

その後,幾度か綾朝には日生国への野心を見せる権力者が現れたが,
現実に両国の抗争に発展する事例は存在しなかった。

常盤にはついに泰平が訪れた。

さらに日生国は,列強を東洋から退けて,独自の交易圏を形成した。

現代に至るまで日東洋を取り巻く諸国は,
日生国を軸として連携し,列強の進出を退け続けた。

上聖は,後世,「近代世界の父」と評されることとなる。

近代以降の世界情勢は,美城上聖が構想した世界の姿を後追いするものと言って良く,
上聖の先見の明は明らかであった。

自身の遺言に見られる「何も成さず」の言葉とは裏腹に,
正に「近代世界の父」と言うに相応しい業績をのこしたのである。


遠征

ところで,リュイトでは,日生国の支援を受けたリュイト人による,
イストラからの領土回復が進展していた。

イストラは,旧リュイト帝国領からは追い払われたが,
それより南,特に北緯31度線以南のアウグスタ植民地には確固とした勢力を持っており,
アウグスタ西海岸のサン・カルロと南洋のマナン島と,
華大陸を結ぶ貿易路を確保していた。

マナン諸島は,イストラにとって華大陸や常盤を窺う重要拠点であった。

美城上聖は,

「マナンは,南洋の東の端にあって,常盤にも近く,
また理国(リュイト)との中間にある。

イストラが我らの喉元に突きつけた刃のようなものである。

彼の地がイストラの手を離れ,マナンの島民の手に戻らない限り,
引き続き常盤も南洋もイストラに狙われ続けることになる。」

との懸念を示し,マナン遠征を企図し,調略がすすめられた。

現地の首長たちが反乱を計画したが,その背後には無論,
日生国の存在があった。

百三十二世19年(1608),日生国はマナンへ大艦隊を派遣する。

上聖自身も85歳という高齢を押して,清泉神聖とともに,
マナンに最も近い日生領の島 打音島(うちねとう)に入り,指揮を採った。

もちろん,上聖の出陣に反対の声は大きかったが,上聖は,

「これは,私の代でなすべきことの総仕上げである。」

として,固い決意の下,打音島に入ったのである。

イストラ側も支配下での反乱の動きを察知して,首謀者を捕縛・処刑して対処したが,
全ての反乱計画を潰すことはできなかった。

マナン諸島各地で現地民の反乱が発生すると,
呼応して,日生軍がイストラ側に攻撃を仕掛けた。

日生軍の沢渡周の艦隊は,イストラ艦隊を打ち破り,
内外の攻撃にさらされたイストラ側は混乱を来した。

ついに日生軍は,イストラのマナン経営の拠点であるカヤの街を攻略した。

その後も日生軍は,イストラ側の反攻を退けて,
マナン全土から,イストラ勢力を駆逐した。

日生国は,カヤの郊外に列強に対処するための軍事拠点と,
交易のための商館を築いた他は,マナン各地を現地首長の統治に任せた。